2014年1月22日水曜日

タイムスクープハンター スペシャル

1922年大正11年11月30日 東京本郷が今回の舞台。
庶民の食生活の取材が今回のミッション。
コロッケ、カツレツが人気。(簡易洋食 東京食堂)
カレーライスは明治5年に、日本で紹介された記録あり。
オムライスなども人気。
日本人は洋食という新しい味を追い求めていった。
ところが、今回の取材対象は「蒲焼き」。



日本の伝統の味にこだわり先祖代々の味をかたくなに守り続けているうなぎ屋「柳本」
うなぎ屋「柳本」6代目主人・柳本金次郎が取材対象。
息子・柳本幸雄とは事あることにぶつかり、ギクシャクしている。
ある日、幼馴染みの荻野譲二が柳本金次郎に、この店を潰してカフェーやった方がいいと言って来た。その提案に、柳本幸雄も乗っかったが、柳本金次郎は激怒。
金次郎は沢嶋に、秘伝のたれをなめさせる。
「このたれが、先祖代々守り続けて来たもの。初代が作ったたれに継ぎ足して来た。
簡単には絶えさせられない。」と。
沢嶋は初代のたれを取材にタイムワープを決行。
安永6年1月1日江戸本郷の片隅で、うなぎの蒲焼を販売している屋台、うなぎ屋「柳本」を訪れ、創設者・勘太郎に取材した。
なんと、ここではニューロ粒子が薄いため、いつもの「特殊な交渉術」が使えない。
言い訳をしながら、珍妙な格好の人の状態で、取材を決行。
この時代、うなぎの蒲焼きは屋台が主流だった。まだ、高級料理イメージはなく、身分の高い武士は口にしなかったという。

日本人がうなぎを食べた歴史は古く、縄文時代まで遡る。室町時代になるとうなぎをぶつ切りにし、串にさしたものを焼いて食べていた。その見た目が、蒲の穂に似ているので蒲焼きと言われたという。蒲焼きの味付けは醤油だけの物が多く、この頃江戸で出回っていた醤油のほとんどが下り醤油と呼ばれる関西から運ばれた醤油だった。

うなぎ屋「柳本」に、突然の邪魔者の侍クレーマー現れ、消え失せろと言われた。
取材途中だったが、ニューロ粒子が微弱な為江戸時代から離れることにした。しかし、職務質問に引っかかってしまい逃走し、タイムワープした。
逃走中に、バタバタと被害を受けた人もいた。

大正11年東京本郷に戻ると、うなぎ屋「柳本」はカフェーに変わっていた。
無理矢理、店に連れ込まれ、お姉さんの接客をうけ、ぼったくられるハメに。


職務質問をしていた人々にぶつかった野田醤油を勘太郎に届ける途中だった仙吉はその壷を割って、上質な関東の醤油と出会うことなく頑なに下り醤油を使った為江戸の人々に受け入れることなくうなぎ屋が失敗。つまり、柳本が存在しない別の歴史になってしまったという。


歴史が変わってしまったので、修復作業が必要になった。

歴史を修復するため、再び江戸時代へワープした。
ぶつかる前の仙吉に接触をし、安全な道に誘導をした。そして、勘太郎に関東「野田醤油」を届けた。
一口に醤油といっても風味が異なる様々な種類が存在し、関西は薄口醤油、関東は濃口醤油が好まれた。関東醤油の品質向上し、発酵・熟成期間を長くした濃口醤油が江戸で人気となった。
下り醤油が市場を独占していたが、次第に関東醤油がシェアをせっけんしている。はじめて関東っ醤油と出会った勘太郎は、味に深みがあると認め始めた。
邪魔者・侍クレーマーが再び現れた。その侍たちに関東醤油による蒲焼きを振る舞い認めさせようとしたが、まずいと激怒された。江戸の侍の舌に合う蒲焼きが出来るのか2人の試行錯誤がはじまった。

仙吉は甘みが足りないのではないかと話した。砂糖は高価なため使えない。
みりんを使ったらどうかという事になり、当時おとそとして飲まれていた、みりんを入手する事に。
仙吉の姉の家に2人で行って、新年の挨拶。おとそを分けてもらう。
沢嶋はついでに、庶民の正月を取材。関西と関東のお雑煮の違いとか・・・。
(カナメジュンは香川出身なので、あんこ入りミソ雑煮だよね。)

翌朝午前7時、勘太郎は開店準備を行っており、タレの出来前に手応えを感じている様子だった。
再び侍たちが訪れた。その時、美味しい匂いに釣られ人々が出てきた。
勘太郎に激怒をしていた侍たちは、「美味しい」と話した。すると、人々が一斉に蒲焼きを買い始めた。1777年安永6年正月うなぎ屋「柳本」が人々に受け入れられた。

4年後、うなぎ屋「柳本」は屋台から店舗を構えるまでに成長していた。
勘太郎は、さらに旨味と濃くを追求しタレの改良を重ねており、大評判を迎えていた。仙吉の姉なども手伝い、侍たちは上質な醤油を割安で仕入れてくれた。
そして、柳本秘伝のタレを入れる壷をプレゼントされた。19世紀に入り蒸しの調理技術が生まれ、うなぎの蒲焼きはもっと美味しくなった。

大正時代本郷に戻ると、最初にタイムアップした時と同じうなぎ屋「柳本」があった。以前と変わらず繁盛しており、そこには焼きを息子・幸雄に任せる姿がみられた。その後、「柳本」は、関東大震災・東京大空襲と幾度もの災難に見舞われる。そのたびに店舗を焼失したが、タレだけは命がけで持ち出された。

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